こんにちは、石工のメイソンです。
「ブログを更新しろ」
という指令が下りましたので、
今日は独り言をつぶやいてみます。


結構昔の事なのですが、
「ナ〇スの自由を認めないと、
本当の自由は達成できない云々・・・」
という大学教授?の意見を耳にしました。

その時、私には「本当の自由」という
言葉の意味が解りませんでした。
「本当」という部分も解りませんが、
~「本当の自由」とは?~
一体何なのでしょうか。

刺激的な部分だけを聞いた感想なんて
頓珍漢な感想にしかなりません。
しかし、それを聞いた時
「先生の仰る『自由』は、大勢の方が持つ『自由』
のイメージに近いかも?」
とも感じました。
「自由」という言葉のイメージといえば、
無限にひろがる爽快さ、
全てに優先されるべき権利。
そんなイメージがありますが、

それと平行して
私には少し違うイメージがあります。


例えばですが
「ある思想に基づいて、その思想を達成するためならば
他人に危害を加えるのは致し方ない。それは自由だ」
と主張したなら、相手側には
「危害を加えられたくないと思う自由」
あるいは「危害を加えさせない自由」があります。

その時「どちらの自由が叶えられるのか?」
は色んな条件で違ってきますが、
この場合「全ての自由は叶えられる」
なんてことはなく、
片方の自由は制限されます。
つまり「自由」には制限があると思うのです。

そもそも「自由」という言葉は
使い方次第で変化するものなので、
あんまりこだわる必要ないとも思うのですが
「自由は、あらゆるものに優先されるべき」
と主張されると、それには疑問が湧きます。

なにしろ、
私の日常生活においても
「崖から飛び降りる自由」
はあるかもしれませんが、
「飛び降りても無傷でいる自由」
はありません。
行動を自由に選択できても、
結果を自由に選択することはできません。
「希望する結果を願う自由」はあっても
実際に結果を左右するのは「物理法則」です(笑



という訳で「自由」という言葉には
制約や制限が沢山あり、
その制約や制限を超えると
別の「自由」を制限する、
というジレンマがあります。


当たり前ですが
「危険な思想も『思想の自由』の範疇である」
というのは
「何を考える人がいても止めることはできないし、
それを罰しようとするのも危険な思想だよね」
という消極的な肯定です。
大抵の場合は
「安全な生活を営む自由」つまり
「基本的人権」を優先させないと、
危険思想の人自身にも危険は及びます。

「自由」という言葉は素敵ですが、
言葉の持つイメージと現実には
大きなへだたりがあるように感じます。

ん?
もしかすると
「自分の自由を貫けば、誰かの自由を脅かす」
「自己の利益を追求すれば、必ず別の誰かから搾取している」
という戒めの前振りだったのでは?

今日のところはこんな結論にしておきます。



メイソン

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